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言葉にするのはちょっと待って!

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先週末のUX Workshop labo.による久々に大がかりな対面&オンラインのアクティングワークショップ。集まる人数を減らすため、3拠点で開催し、ところどころオンラインで結ぶという初の試み。 ドキドキしながら、私とカナさんチームは東京会場へ。 会場下見した際に、こんなポスターが。ナイスなコピー 笑 で、なんだかんだで、アクティングアウトを終え、何か確かな感覚をみんなで共有していたところに、アクティングアウトに参加していない方からの、こんな質問。 「で、ユーザーのインサイトは何だったのですが?」 「それらの言語化はしていないのですか?」 と、矢継ぎ早にマウントをとってこられ。これまでの和気あいあいした空気感が一転、、 。 こういう時、頭が真っ白になる。そんな私の隣で、 「今回は調査結果ではなく自分の実感を最初に話すことからスタートしたので、 とにかく実感を感じらるかどうかが重要だったんです」と参加者の一人が答えてくれたました。すばらしい!! 「インサイトの言語化」… とっさに頭真っ白になった自分を反省しつつ、この言葉が後々私の中でモヤモヤとしてきた。 「言語化」 明文化することはとても大切なこと。言葉にすることで思考がはっきりしてくるし、相手にも伝わるようになる。ただ、これを急いでしまうことの弊害もあるということ。 そもそもなぜ私が、アクティングアウト押しなのかというのも、「言語化」ができない部分(感覚的な価値)を身体で演じることで、まわりの人たちと共有の感覚を見つけたいからだ。 自分の感覚を抜きにした市場調査から得られる「インサイト」なるものへの違和感。これがインサイトです。と言語化される以前のふんわりとした感覚。 エビデンスのない、ふんわりした感覚を頼りに開発するなんて持っての他!とお叱りの言葉が浮かびますが、私たちが目指しているのは、どこかからとってきたデータではなく、自分が本当に「いいかも!」と思えた実感を起点にした開発です。 身体的にキャッチしている「言語化」されない感覚を開発チームで共有できれば、自ずと次の段階で言語化のプロセスへと向かうことができます。 だから、きちんとした言葉にしてしまうのを急がないで!と言いたい。 考えすぎず、考えなさすぎず。 頭を使うのに慣れてきた現代人は、ついつい頭だけで考えて答えらしいもの

インプロ(即興演劇)とUXデザイン研究会

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前々から気になっていた「インプロ」のこと、舘野先生にちらっとインプロ研究会したいんですよって相談したところ、ババっと声をかけていただき、これまたインプロ的に集まれる人がその日、その場に集まって何のプログラムもなく開催していただきました。 ✨ 日時;2018年7月25日(16:00〜18:00) 場所:立教大学 集まった人:三宅由莉 舘野 泰一 石戸谷 直紀 園部 友里恵 野村 真之介 堀 光希  なぜ私がここのところ俄かに「インプロ」に興味を持ち始めたのかといいますと、現在、私がUXワークショップ企画で専属している株式会社ビットデザインスタジオでは、UX(ユーザー経験)デザインを考える時に、身体をつくって演じながら思考する「 アクティングアウト 」という手法をワークショップで用いるからなんです。 これは、かつて90年代にプレイフルラーニングでお馴染みの上田信行先生とジョン前田氏によって行われたコンピュータの中身を演じてみるという「 Human powerd computer 」のワークショップに端を発しています。この時はまだワークショップというものが世間にも浸透していない時、ここから経験のデザインとは何かがダイナミックに動きはじめた時代の感覚を覚えています。 で、UXデザインの中でアクティングアウトとやらは、具体的にどういったことをするかと言いますと、 ある製品が使われる状況やサービスのシーンをグループになって 「こんなシーンでこんな風に使われるといいね」 「こんなシーンだとこんな機能があるとうれしいな」など、 即興でいろいろなペルソナになったり、時には製品そのものになりきって、演じながら企画やアイデアを 共 創していきます。 ※アクティングアウトとは: 開発における「アクティングアウト」とは、製品の使用シーンやサービスシーンを「身体」を使って演じてみる中から、脳ではまだ意識化されていない感覚(無意識)に注目し、そこでの気づきを開発に活かしていく手法。 by MiyakeYuri ビットデザインスタジオパンフレットより 実際にやってみると、頭やデスクトップ上で考えていた時には思いもよらない、アイデアが身体感覚や空間感覚などによって創発的に生まれてくる経験をします。結

動きながら考える派?考えてから動く派?

「ね、まず一回やってみよ〜」 って私の口癖みたいなんです。笑 「考えてから動く」 ではなく 「いきなり動きながら考える」 派ってやつです。 これを言うと、そだねーってすぐやってみる派は少数で、「えっどう動くんですか?」って戸惑われることが通常。そんな時にも「いや、だからちょっとほらこんな感じで立って動いてみて」って身振り手振りでやってみせて頑張ります。 ここで、だまされたと思って身体を動かしてもらえると、大抵「あれ、なんか、あれ、これいいかも」ってなるんですよ。いや本当に。やってみること がどれほどアイデアを生み出していく上でパワフルで楽しいかを経験すると、もうやみつきになります。だって、想定するような計画なんてないわけですから、 そこには「失敗」なんてなく、「発見」しかない からです。 でも、どういうわけか、「いきなりやってみる」ということに対して強い拒絶反応を示す人たちがいるんです。それが以下の3タイプ。 どうしたものか。。 1)動かなくても頭で先にプランを考えた方が効率がいいと頑なに動かない人 2)動いたって意味ないってバカにしつつ人の目を気にして動くふりをする人 3)動きたいけど、いきなり動くのは恥ずかしいと思って動けないでいる人 こんな方たちは、偶然に出会うチャンスをものすごく逃していると思うのですが、1)2)の人に関しては 、もうどこまでいっても頑なだったりするので、ご本人の好きなようにしてもらったらよいのですが、 社会問題だなって思うのは、3)のような人(動きたいけど恥ずかしいと思って動けない人)が、1)2)の人たちにプレッシャーをかけられて動けなくさせられること。 これをどうにかしたい!って思うのです。なぜなら、かつて私も3)タイプだったから。 先日、「だまされ上手が生き残る 入門!進化心理学」石川幹人著 光文社新書という本を読みました。おもしろかったのは、 強いものが生き残るのではなく、「負けるが勝ち」と、だまされてみることができる者が生き残っている 、みたいな話。要するに、頑なになって無駄に戦うよりも、 とにかくだまされたと思って「やってみる」 ができるものこそ進化につながるってことなんだと安直に解釈しました。 だから「ね、まず一回やってみよ〜」と言いたい。

ワークショップのパッケージ化で失われるもの

教育系のワークショップをお仕事として依頼される時、よく求められるのは教育を「商品」として パッケージ化するということ。 これが、ちょっと厄介なんです。 お決まりのパッケージ化された定型ワークショップというのはたくさんあります。けれども ワークショップは基本的に生物で、参加する人も違えば、環境も違えば、ワークショップに求める思惑も違うわけです。何が起こるかわからない、何が生まれてくるかわからないからこそワークショップなはずなので、主催側はハラハラするでしょうが、その場で起こっていることに神経を注いで、進めていく。ワークショップという場をつくるのは、最終的には参加している人たちだからです。 私が企画に関わる、un labo.やビットデザインスタジオのワークショップでは 、定型ワークショップをそのままやることはまずなく、その時々にあわせてオーダーメイド的に企画をつくっていき、当日も参加者の様子を見ながらプログラムを改変していくことになります。 これって、ワークショップ 観 や教育観の異なるクライアントの場合、とても不安になるようで。時にはとても怒られます。笑 そもそも教育をパッケージ化することに無理があって、どうしても、やる側都合でプログラムを固めてしまうことになる。 この時にとても残念なのは、どんな状況でも、どんな人でもできるようにつくるからですが、学び手 を舐めた過保護なものになってしまうこと。90%レールを敷いた上を歩かせて、オプションで想定内の範囲なら自由を許します。みたいなやつです。 何が出てくるか、あるいは出てこないかもしれないようなものを 「デザインしました」 「教育しました」 というのはとてもリスキーで勇気がいることです。 ワークショップも予定調和的にちゃんちゃんと進行できるようにつくっておけば、ライブショーのように安心して見ていられるからですね。 でもね、きっとそういう過保護なキットで企画ごっこしてるうちは、 できたような気になっているだけ で、 無から何かを生み出していく 企 画力や創造性 って育っていないと思うのです。 教育の中でそれをやらずに、いきなり失敗が許されない社会でそういうレシピのない局面に立たされたら、どうなんでしょう。 実際の社会には明確な目的なんてないし、どんな状況でも通用する定型の方法

アクティブトランジション体験会!?

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アクティブトランジション体験会!? 学生から社会人への移行を支援するために企業・大学ができることとは? 〜内定者の育成と大学時代の過ごし方について考える〜 日時:2016年7月13日(水曜日)午後7時から午後9時まで 場所:株式会社内田洋行 東京ユビキタス協創広場 CANVAS 2F 参加費:3000円(軽食+フリードリンク+カードdeトークカード) 定員:100名 主催:書籍『アクティブトランジション』制作チーム  舘野 泰一 (立教大学)  中原 淳 (東京大学)  木村 充 浜屋 祐子 吉村 春美 高崎 美佐 田中 聡 保田 江美  井上佐保子、三宅由莉、いわた花奈 共催:内田洋行教育総合研究所 協力:株式会社 三省堂 応募は以下のサイトからお申し込みください https://goo.gl/2u5JzD ================================================== 「6月の選考解禁」とともに、新卒採用活動が本格化してきま した。企業にとって、内定者フォローをどのように行うべきか、 せっかく採用した貴重な人材をどのようにかにひきとめ、早期 戦力化していくのかは重要な課題です。 一方、大学は、今後の就活支援をどのように行うべきしょうか。 学生から企業でしっかりと活躍できる人材へと変容していく移行期 (トランジション)をどう導くかは、大学においても企業において も大きな課題です。 本イベントでは、 ・どのような大学生が社会で活躍しているのか? ・どのような内定者フォローが有効なのか? といった、大学生に対する縦断調査の結果の報告と、 研究知見に基づいたキャリアワークショップを体験いただきます。 今回体験していただく 「カード de トーク いるかも !?こんな社会人」ワークショップは、 一般的な組織にいる「典型的な社会人」がカードとなっており、その カードをもとに対話を行うことで「就業観・職業観」について考える ものです。主に内定者向けに開発しています。 当日ご体験いただくワークショップに関するガイド、使用するツール、 理論的背景となる研究論文等は、筆者らが著した新刊『アクティブ トランジション』に収録されているものです。 本イベントでは、 1.企業で採用・内定者フォロー・新入社員研修をされている方 2.大学・高校でキャリア教

「つづけること」のデザイン

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週末は中秋の名月。 季節はかならず巡ってきますね。 こうして否が応でも巡ってくる季節を前に、ふと思うのは、 「はじめる」ことより「つづける」「つづく」ことすごさ。 気持ちの赴くまま、あれこれやってきて、はたと気づけば、つづけけているような、つづけていないような…。 新しいことをはじめるのはパワーがいるものの、新しいものには、まだ見えない可能性があってワクワクしてしまう。だから普段はのんびりな私もこういう時には猛烈にパワーが出たりするんです。 ただしかし、こうして生まれたものを「つづける」ということに、いまひとつモチベーションが上がらないのは私だけでしょうか? 教育の世界では「継続は力なり」と言うのをよく耳にしますが、デザインの世界では、案外「つづける」ということよりも、「新規性」「即効性」に目がいきがちです。「何か今までに見たことのないようなもの」だったり、「即、問題解決してくれるもの」だったり。 「つづける」ことは、「成長」や「成熟」を待つことであって、その人やモノや事柄が「育つこと」に喜びを見出すこと。 「育てる」というキーワードをデザインにあてはめてみると、案外その視点が抜け落ちていることに気づきます。デザインは産みの苦しみの末、産むのだけれど、産んだ後はほったらかし。というケースがほとんどだったりします。 産み出したものを、どう継続して育てていくか。また自分が育てるだけでなく、社会の中で育ててもらうという大らかさが「つづける」秘訣かもしれません。 と、口で言うのは容易いのですが、、、 「つづけること」のデザイン。 これが、本当に難しい。 先日、記念日デザイナーの松村カヨさんと10月に甲南女子の大学院卒業生の会で二人で話をするにあたって、「記念日」と「ワークショップ」に抱くイメージを分解してみました。この分解の詳細はすっごく面白かったので、また追々書きたいと思いますが、ここで気づいたのは、 「記念日」は、多くのものが1年に一度、その日やその季節が「巡ってくる」「巡ってきてしまう」のに対して、「ワークショップ」は多くの場合が単発である。(これはあくまでも私たちの中のイメージなので、そうじゃない人もいるかもしれません) この分類が正しいかどうかは別として、アッとなったのは「巡ってくる…」という言葉。 自分からアクシ

問いを問う

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禅問答かっ。笑 来週、京都大学のサマーデザインスクールで塩瀬先生と安斎氏が行っているプログラム「問いで教科書を捨てる」に、「深い問いの実践者」?としてゲスト参加します。 「深い問いの実践者ってどーゆーこと???」なんとも気になるお題をいただきました。 全くもってよい問いをなげかけられたので、 un labo. のメンバーとこの問いについて少し話してみました。 http://www.design.kyoto-u.ac.jp/sds2015/theme28.html よくデザインとアートを比較して、デザインは問いを解決すること、アートは問いを出すことだと言われます。便宜上どちらよりなのかということで分けているのだと思うのですが、どーもいつもこの分類にひっかかるのです。 何にひっかかるのかというと、デザインはあたかもそこにある「問い」をどう解決するかというところからスタートするように聞こえるからです。まるで、ドアノブがつぶれている(問題)から修理する(解決)人のように捉えられなくもない。(ドアノブ修理してくれる人を心から尊敬しますが…) 実際のデザインのお仕事では、どこに「問い」があるのか分からないことの方が圧倒的に多いのに。デザインはまず「問い」の発掘作業からスタートすると言ってもいいと思います。何が問題なのか、その所在をデータからではなく、自分の嗅覚を研ぎすませて探ること、もうこれがデザインお仕事の根幹と言ってもいい。 問いは、常に「状況」の中にある。どういう状況で、だれがその質問をどういう意図でするのか、によってそれに対して考えるスイッチが入るかどうかが決まります。 デザインで最初にクライアントから依頼を受けた時、まず行うのがヒアリングですが、この時に「問い」の発掘作業がはじまります。決してクライアントの多くが「よい問い」を出してくれるかというと、そうではありません。むしろデザイナーの仕事として、クライントに対して「よい問い」を出すことで、問題の所在を探っていくというプロセスをふみます。 では、そのよい問いとは何だ???と考えてみました。 自分の経験から言うと、マニュアルや決まりや法則があって質問をしているのではなく、ごくごく直感に従って「気になる」部分を聞いていく。ただそれだけです。 「気になる」というところに必ず「問い」